どうも豆腐です。
ゴールデンウィークも終わってしまって、社畜の皆様、学生の皆様はさぞ大変だと思います。
ワタクシは幾分ニートでおりますゆえ、毎日がえぶりでぃです。(バカ)
さて、今回はTwitter内での下記やり取りを見ていてとても哲学的だなと思ったので、
「バカ」というものについて掘り下げて書いてみたいと思います。
なるほど、どなたの意見もごもっともですね。
それではまいりましょう。
(※ネタをご提供いただきました方々誠にありがとうございます。
これが炎上商法というやつでしょうか。炎上すればですが。)
・バカとは?
馬鹿(ばか)とは、
愚かなこと
- 社会の常識に欠けていること(「専門馬鹿」「役者馬鹿」「親馬鹿」などと用いる)。
- 知能が劣り愚かなこと。
- つまらないこと。無益なこと。
- 役に立たないこと。機能を果たさないこと。
- 理解力・判断力・知識などが人と比べて劣っていること。
漢字では莫迦、馬稼、破家、跛家等と表記するが、馬鹿を含めいずれも借字である。平仮名や片仮名でばか・バカと表記する場合もある。
出典 : 馬鹿 - Wikipedia
ふむふむ、おおよそ皆さんが思っていたことと同じではないでしょうか。
もう少しWikipediaを見ながら考えてみることにしましょう。
・概説
日本語で”相手をからかったり、罵倒(その立場を低く見なす事で、相手の感情を損なう・人格の否定)するため、最も普通に使われる単語”。
公の席で使うと刺激が強過ぎることがある。
だからこその拒否反応ですね。
やはり"バカ"という言葉には、小さいころから良くない言葉として刷り込まれている日本人にとっては棘のある言葉に聞こえるのでしょう。
・地域による意味の違い
広辞苑によると、古くは僧侶の隠語であったものとされており、おそらく梵語(サンスクリット語)のmoha(「無知」という意味の語)から転じた語とされている、が、様々な説がある。
この語は、日本語で広く用いられているが、地域・使われる場・自分か他人に向けたかにより、意味やニュアンスは大分異なる。
例えば関東地方は、一般的には軽い揶揄程度で使われるのだが、近畿地方では強い感情を込めて罵り倒すときに使用される、といった相違がある。
聞き手の出身地によって、『馬鹿』の受け取られ方も大きく異なることには注意を要する。
ここは調べてみて初めて知りました。
私は東京在住30年近くになりますが、"バカ"なんて普通に使われていましたからね。
それに対して、西側は"バカ"という言葉には強い感情をこめてののしり倒すときに使われるというのです。
つまり、軽い気持ちで使ってみたものの、環境や立場によっては、大きな不快な感情を呼び起こしてしまう可能性のあるいわば"諸刃の剣"ともいえる言葉といえるでしょう。
つまり "バカ" = "憎悪"という化け物を召喚するための召喚術 と言っても過言ではないでしょう。
・阿呆(あほう)と馬鹿
類語の「阿呆(あほう:理解したり思考する能力が不足している)」との使い分け(意味の強弱)には地域による相違がある。
関東では「馬鹿」は軽い意味で(時には愛情を込めて)用いられるのに対して、「阿呆」というと、かなり強い軽蔑の感情を込めて用いられる。
だが関西では、その反対に、「阿呆」が軽いニュアンスで用いられ(愛情を込めて用いられることもあるのに対して)、「馬鹿」は強い罵りの感情を込めて用いられる。
関東では「馬鹿」は、罵りの感情は込めずに用いる場合も多い。典型的な例としては、親しい間柄や恋人の間でかわされる会話が挙げられる。
短所も併せて好き合っている間柄などで用いられる。この場合の意味には罵る意味はない。「親しさ」の表現や「恥じらい」、または「本気で愛している」を表現する上での符丁のように、様々な局面で用いられる。非常に親密な状態を示すバロメータともなり得る。
何かに熱中するあまり、社会的常識を失ってしまったような状態も「馬鹿」と言う。これは何かに熱中する余り、一般的な配慮や常識的な配慮が等閑(なおざり)になっている様子を指している。
西側と東側でこうも言葉のニュアンスが変わるというのはとても面白い、と思いませんか?
どんな時代背景の影響から、この”バカ”と”アホ”の意味合いが入れ替わったのでしょう?
詳しい人!教えてください!
・ニュアンスの違う実例
以下のような例がある。
「親馬鹿」(おやばか) - 親が自分の子供ばかりを溺愛するあまりに、はた目には愚かなことをしてしまっているのにその愚かさに親自身が気づいていないことである。
他人に与えた(可能性のある)不快感について詫びをするために、「親馬鹿ですみません」など比喩表現に用いられることもある。「専門馬鹿」 - 特定の分野(特定の学問など)についてのみ異常なほど執着し知識を持っているが、その分野以外に関しては、一般人以上にひどく無知な人のことである。
「釣りバカ」 - 釣りに熱中するあまりに、社会的常識を失ってしまい、家族や仕事よりも釣りを優先してしまうような人を指す(この意味では「道楽」が類義語に当たる)。
「馬鹿」は多かれ少なかれ感情的な意味合いを含む言葉であるため、その用法は公的な場では制限される事が多い。例えば、所属組織の上司に向かい同語を用いると、社会人として致命的な状況に追い込まれる可能性がある。
また、子供同士の他愛の無い喧嘩などで、お互いにバカだ何だと罵り合う・掴み合う様がしばしば見られるが、これは傍目には、双方が馬鹿のように見える一つのケースである。
さらに、同語を繰り返し用いると、相手の気分を害したり、人を見下す意味合いになる場合もある。
実例を見ていくと、確かに色々なニュアンスがあることが見て取れることが分かりますね。
・哲学的”バカ”
肯定的に扱われる場合
不器用ながらも一つの道を曲げずに歩き続けることで何らかのものを大成する、そのような姿をバカという場合もある(例:『空手バカ一代』)。 類似の表現として「愚直の一念」がある。ややこしい考えやたくらみを練らなければ、生きてゆく上では失敗や損もあるだろう。特にだまされることはあるに違いない。
「正直者が馬鹿を見る」との言葉もある。これは、「馬鹿」という単語を否定的に捉えているが、だますのは罪だがだまされるのは罪ではない(場合が多い)。
この観点から、このような馬鹿は少なくとも正直者ではいられる、という意味で「馬鹿」が用いられることがある(例:『イワンの馬鹿』、『雨ニモマケズ』)。
上記とやや似ているが、様々な状況を配慮し、それにそう形で物事を解決するような大人の判断に対して、それでは正義が真っ直ぐに貫けない場合がある。若者がそういった状況に耐えられずに真っ直ぐに進む様を「馬鹿」という例もある。馬鹿正直などは場合によってはこれを意味する。あるいは若者の暴発しがちなエネルギーをさして馬鹿という例もある。たとえば年齢を感じて「もう馬鹿はできないなあ」というのが逆説的であるがそれを示している。
他方、物事を考える力が弱く、うまく物事を進められない場合、様々な失敗をすることになるが、その姿は、むしろ色々なことに気を遣い、先を読んで動かざるを得ない社会においては、一服の清涼剤ともなるであろう。禅僧の一つの姿としての良寛などはこれに近い。漫画『天才バカボン』のキャラクターであるバカボンのパパもそういう役割を担うことがある。
ここまでくると、もう完全に哲学である。
・まとめ
ここまで調べてみると見えてくること。
「人間とは、互いを完全に理解しあうことは不可能である。」
育ってきた環境や、考え方、感じ方の違いにより、必ず双方に歪みが発生するものです。
どうやってその歪みを直すかはそれぞれの対応や、その後のフォローなどによる所が大きいと思われるが。
何をするにしても、「行動」を起こすという事は、その時点で誰かしらとの摩擦が絶えず発生しているものである。
そこから大きく燃やすのも、温めるのもそれは両者の自由ではないだろうか。
もう自分でも、何が言いたいのかよくわからなくなってきたので、この辺りで終わることにする。